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 宮本 武蔵

日本のスーパーマン的イメージの強い宮本武蔵ですが、はたしてどういう人だったのでしょうか。
宮本武蔵の測定は、「五輪書」に目を通してからと思っていましたが、「五輪書」を全部読むことも不可能なのでとりあえず測定することにしました。
「五輪書」については、以前始めの部分だけ読んでみたという程度ですが、その印象は霊的な面は無かったように記憶しています。
それより人間の意識とか潜在意識をよく研究している、解っているという感じが残っています。
宮本武蔵の波動振動測定ですが、書、水墨画、刀の3点をしてみました。

まず、宮本武蔵の書から感じる武蔵の意識集中です。
武蔵は前頭部にかなりの強い集中をしながら、その意識を両側頭部にまで意識の注意を置いています。
それはちょうど両耳の上あたりにあります。
さらにそのあたりから後ろ、目に入らない部分まで意識を集中させている感じです。
振動的には、かなりの緊張感がありますが、何かピリッとした気持ちが引き締まるような感じで、その集中の質自体は気合が入って良いものです。
前頭部は霊視的な感じで側頭部の集中と共に読みと注意といった意識で、どちらかというと外に集中するのではなく自分の内的な感覚反応に集中させるといった意識です。

次に水墨画からの測定ですが、鳥や達磨の絵に集中してみました。
「へぇー、意外に優しい面もあるんだ、これが武蔵なの!」
これが測定の感想です。
この水墨画にも先ほどのピリッとした意識はあります。
しかし、その緊張感からはちょっと信じられないのですが、その中にやさしい思いの振動もはっきり分るくらいに感じます。
意外と言ったら失礼かもしれませんが、人間的意識バランスは持っている人です。
剣の道というと、闘うことだけに意識があるように思いがちですが、宮本武蔵はもっと深い部分を探究していたのかもしれません。
絵を描いているときが唯一自分と向き合える時間だったような、何となく絵から気分転換しているような意識も感じます。

最後に、武蔵が使っていた刀です。
京都の吉岡一門と戦ったと伝えられている刀の測定です。
この刀に入っている波動は、やっぱり超ネガティブです。
もし、宮本武蔵がこの超ネガティブ意識だけの人間だったら、何をやらかしたか想像するのも寒くなりますし、また相当な悪人になっていたでしょう。
やさしい意識も持っていますが、このネガティブ性も宮本武蔵が持っていた意識ということになります。

宮本武蔵の意識を全体的にまとめてみますと大変複雑な精神性が見えてきます。
超ネガティブ意識もあり、また本質的にはとても優しい面もある宮本武蔵は何を求めていたかです。
宮本武蔵は自分でもどうにも出来ない内的対立、自己矛盾に悩んでいたのではないでしょうか。
宮本武蔵の優しい意識振動は、実際私もビックリしました。
剣客と言われる人のイメージからは想像することが出来ない、ちょっと考えられない優しさです。
全く2つの真逆のポジティブとネガティブが自分の内にあれば、かなり苦しいと思います。
どちらが本当の自分なのか?
武蔵はどうにも出来ない内から来る自分のネガティブ性と向き合っていた、その探究をしていた。
その研究、分析の結果が潜在意識的な内容の「五輪書」の土台になったのかもしれません。
自分を知ることが人間意識を知ること。
自分を窮地に追い込むことで知ることの出来る自分。
当然、意識レベルが低ければこのようなことは考えませんが。
もし、宮本武蔵にもう少し時間があって霊的真理に触れられたなら、かなりの聖なる人に近づいたかもしれません。

「五輪書」では、現代人にも十分通用する潜在意識レベルの教えがあります。
「五輪書」も潜在意識レベルで全分析したいと思っていますが、時間的に何時になるやら・・。
宮本武蔵の意識も見えて来たので、「五輪書」の潜在意識レベルでの解説もそれほど難しくないでしょう。
今回は測定した意識から宮本武蔵の本質を推測してみました。
次は「五輪書」を読んでさらに深い意識分析をしたときに、宮本武蔵の本当の意識がわかると思いますが、それは課題として残しておきたいと思います。

ウィキペディア:宮本 武蔵     島田美術館

 源 頼朝

書からの測定です。
霊的なレベルや良い波動はあまり感じられません。
書から感じる波動は、心配性で焦りの気持ちも強くいたって動揺しやすいタイプです。
深く書に集中していると、精神状態は切羽詰ってどうにもできない息苦しさの波動でいっぱいというものを感じます。
自己コントロールが出来ていない。
こんな精神状態が続けば、自分のネガティブに押しつぶされてしまうといった感じです。
他の書からも同じような波動が感じられるので、頼朝はこのような性格だったと思います。

ウィキペディア:源 頼朝     文化庁:文化遺産オンライン

 源 義経

義経の直筆からの測定です。
源義経の意識は、本質的にポジティブで相手を思いやる心を持った人です。
ただ、物事が思ったとおりに運ばないという気持ちの焦りが、悩みになっていたかもしれません。
波動からの全体的な印象を一言でいうと、裏表のない感じのいい人となります。

源義経直筆
ウィキペディア:源義経

 松尾 芭蕉

芭蕉の意識集中は、この時代ではめずらしいかもしれません。
潜在意識、顕在意識の両方に集中した意識は、芭蕉の根本土台となる意識です。
わかりやすく言いますと、芭蕉の意識は自分自身を内奥と外(自然)の中間でりラックスした無の感じにおいています。
表面的に何かに集中するという意識ではなく、自分を今言った感じで媒介にしてすべてを一つとしている意識です。
集中というものが何であるかよく知っている意識で、芭蕉の意識振動は何の抵抗も感じられないくらい軽いものです。
芭蕉の意識集中に近い人では、手塚治虫がかなり似ています。

ウィキペディア:松尾 芭蕉     文化庁:文化遺産オンライン

 宮沢 賢治

宮沢賢治の意識集中はサハスラーラにあります。
その振動は悟り系ですが、意外にとても軽く、そして体全体に広がっています。
このような意識だと、いろいろな観点から物事を見たり、想像したり出来ますので、発想も次から次へと出てきやすくなると思います。
生まれつきの根本意識がこのようなものだと、当然そのような方向に進む人生になります。
サハスラーラ集中意識は悟り系ですので、そこに振動がある人、またはそこに集中する人は、自分の目指す潜在能力開発の実現も早まるでしょう。

ウィキペディア:宮沢賢治


 南方 熊楠

納得のいく振動というか、思ったとおりの集中と振動です。
学問や科学的探究をする人に共通しているのが、アジナあたりの強力な集中です。
このような人の集中振動はかなり強いというのが共通しています。
中には測定しているだけで、私のアジナ部分が痛くなってきたり、また逆に意識がスカッと冴えてくる人もいます。

南方熊楠の集中振動も、いつもこの例の代表として出しているアインシュタインの集中振動に似ています。

ウィキペディア:南方熊楠